イザヤ49章14〜26節
「忘れることは決してない」
「シオン」ことエルサレムは、バビロン帝国によって破壊されてしまった。城壁は崩され、神殿は荒らされ、人々はバビロンへと連れ去られた。シオンは嘆いて言う。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と(14)。この嘆きの根幹には、“どうして神は守ってくださらなかったのか”という落胆がある。
このような落胆を、私たちは知っている。私たちは災いや危険、病や不幸なこと、うまくいかないことなど、様々な状況を思いながら、「守られますように」と神に祈っている。その中で、“神は守ってくださらなかった”と思う事があると、失意のうちに「神は私を見捨てた、私を忘れた」と思ってしまう。
しかし神は「このわたしはあなたを忘れない」と言われる(15)。母親が「自分の胎の子」を忘れることなく愛を注ぐように(15)、神は私たちのことを忘れない、いや忘れることなどできないと言われる。その様子を、神は「手のひらにあなたを刻んだ」と言われる(16)。手に名前を書き、その名前を両手で包み込むようにして大切にするということだろう。また「あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」とも言われる(16)。城壁は崩壊しているのだが、神は城壁が回復した姿を思い描いている。神は私たちが道を逸れても私たちを落伍者として見るのではなく、“これは本当のあなたの姿ではない”と、私が回復することを信じていてくださる。
「目を上げて、あたりを見回せ」と神は言われる(18)。この言葉は神がアブラハムに祝福の約束を与えた場面を連想させる(創世記13:14)。人は偏った見方や考え方をしてしまうが、「目を上げて」神を礼拝し、みことばによって神の考え方や神の約束を受け取ることで、自分が整えられる。“○○に違いない”と断定的に考えていた自分が、みことばの光によって新しくされ、神の約束に期待して一歩を踏み出すことができる。
神を礼拝する者に、神は豊かな祝福を備えてくださる。それは、この世の何かでは代用できない、特別な祝福である。救い主であり贖い主、力強いお方が(26)、私たちを忘れることなく、共に歩んでくださる。心を強くして、主を見上げて進んでいきたい。