イザヤ書56章1〜8節
「礼拝する祝福」
ここには「主に連なる外国人」と「宦官」が登場する(3) 。「主に連なる外国人」とは、イスラエル以外の民として生まれ、後に聖書の神を知って律法を守るようになり、イスラエルの民に加えられた改宗者のことである。改宗者は『主はきっと私をその民から切り離される』と弱気になっている。恐らく“自分がイスラエルの民として生まれなかった事実”を大きく考えすぎてしまい、 “私は神の民から切り離されるだろう”と思い込んだのだろう。
また「宦官」とは王宮などに仕える者のうち、去勢された人である。宦官は主を信じていたが、「私は枯れ木だ」と自分をおとしめている。宦官はその身体的な理由から、“千代にまで神の恵みが与えられるという祝福は、自分には与えられない”と思ったのだろう。まるで自分が祝福から除外されたように感じたようである。
私たちも様々な事実によって、主の祝福を信じられないことがある。自分の過去に関すること、自分の生まれや育ちなど、人間にはどうすることもできない事実がある。時にその事実が私たちを苦しめ、失意の底に私たちを追いやることがある。
しかし神は言われる。“私は神の民から切り離される”とか“私は祝福を受けられない”などと「言ってはならない」と。神は宦官たちに、実子と同様の祝福と誉れを約束される(5)。また改宗者たちを神の都に迎え入れ、神の祝福の中で楽しませると約束される(7)。神は私たちが礼拝することを「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ」と言って重く受けとめてくださり、“神を礼拝する者は祝福される、礼拝する者を切り離すことはない”と断言されるのである。
また神は「すでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう」と言われる(8)。この「すでに」と「さらに」には大きな意味がある。私たちは「すでに」教会として集められたが、神は「さらに」新しく人を加えようと考えておられる。「すでに」与えられた祝福に、「さらに」祝福が加えられる。私たちはまるで右足と左足のように、「すでに」と「さらに」を繰り返しながら、礼拝する祝福の道を神と共に、神の民として歩くよう招かれている。