イースター礼拝
コリント人への手紙第一 15章1〜5節、17〜20節
「眠った者の初穂、キリスト」
新聖歌508番「神ともにいまして」は、本来は送別の歌であるが、告別式で歌われることが多い。死の別れに際して、教会が「また会う日まで」と歌うことができるのは、復活の約束によって、主イエスのもとで“また会える”と信じているからである。
コリントの教会では、復活について拒否反応が出ていた。主イエスの復活は信じるものの、「死者の復活はない、と言っている人」がいたのである(12)。つまり“いくらキリスト者でも、人間が身体を伴って復活するとは信じられない”というのである。
私たちは、“怪我からの復活”や“病気からの復活”のニュースに励まされることはあっても、リアルな“死者の復活”と言われると、オカルトやホラーのように思ってしまうのではないか。“霊や魂として復活する”という話なら、まだ信じやすいかもしれない。しかし聖書は、私たちに身体を伴う死者の復活を示している。
パウロは、「死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかった」と語る(13)。復活の主イエスは、トマスに十字架の傷跡を示されたように、主イエスとして・身体を伴って復活された。主イエスは「眠った者の初穂」と言われている(20)。復活というのは、主イエスだけに特別に起きたことではなく、主イエスを信じる私たちも、主イエスと同じように復活させていただくのである。
もし主イエスの復活がないなら、信仰は「むなしく」なり、すべての人は「今もなお、自分の罪の中にいる」ことになる(17)。主イエスの復活がないなら、主イエスを信じても何の意味もない。罪の赦しもなくなり、天国での再会も嘘になる。しかし主イエスは確かによみがえられた。だからこそ、主イエスを信じることには意味があり、罪の赦しがあり、天の御国の再会を信じて「また会う日まで」と歌うことができるのである。
私たちも、主イエスと同じように、死者の中から・身体を伴って復活させていただける。そうであるならば、私たちは神様がくださっている“今という時”を“今の私”として、しっかり生きなければ、と思う。この決意によって「また会う日まで」という歌は、別れの歌でありつつ、生きる決意をもたらす歌となる。