ルカ24章25〜35節

「それで、目が開かれ」

 

 エマオ途上の場面である。これは、主イエスの十字架の死後、「目がさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」二人の弟子が(16)、「目が開かれ、イエスだとわかる」までの話である(31)

 

 エマオに向かう弟子たちに、主イエスが近づかれ、彼らに話しかける。普通なら主イエスだと気付くはずだが、不思議なことに彼らは気付かない。復活の主イエスが共にいてくださり、主イエスから語りかけられているのに、主イエスがわからないのである。

 

 人は昔から、不老不死や輪廻転生、永遠のいのち、生まれ変わりなどについて、神話や言い伝え、文学や映像作品などで表現してきた。人類は“死の先にある生”を知ろうとして来たのである。しかし、現実のこととしてイエス・キリストの復活にどれだけ真剣に向き合い、ここに真理を探求しただろうか。世界中にキリスト教が広まり、教会が建てられ、聖書が翻訳されても、人は復活のキリストを求めないのではないか。これは、この時の弟子たちと同様、“復活の主イエスがわからない”ということではないか。

 

 しかし主イエスは、そんな弟子たちと共にいてくださった。そして、聖書のあちらこちらを解説して、救い主(メシア)は苦しみを受けること(十字架)、そして栄光に入ること(復活)を解説してくださった。弟子たちは、主イエスを知る喜びを感じた。

 

 一行はエマオに到着したが、弟子たちは主イエスに留まるように願った。夕飯の時、主イエスがパンを取って祝福し、それを裂いて渡した瞬間、弟子たちの目が開かれ、目の前にいる人物が主イエスだとわかり、主イエスが復活したことを知った(31)

 

 主イエスがわかるということは、主イエスが“私のために死なれた”とわかることである。“みんなのイエス様”ではなく、“私のイエス様”になる。その時、人は信仰告白に導かれる。

 

 主イエスは、私たちが信じる前から私たちと共に生きていてくださり、様々な機会・人との出会い・トラクトや本などを通して、私たちに語りかけてくださった。復活の主イエスが、私たちに何度も繰り返し働きかけ、心の扉を叩き、主イエスを信じるように導いてくださったのである。確かに主はよみがえられた!