エステル記4章1〜17節
「もしかすると、この時のため」
エステルは不思議な導きで王妃になったが、育ての親モルデカイの言いつけを守り、自分がユダヤ人であることを隠していた。ハマンがユダヤ人虐殺命令を発布する暴挙に出た時、王宮にいたエステルは、その命令を知らなかった。
モルデカイをはじめ帝国中のユダヤ人は衣を裂き、灰をかぶって主に祈った。この異変を通して、エステルは虐殺命令を知った。モルデカイはエステルに、王にあわれみを求めに行くように命じるが、エステルには応じられない理由があった。許可なく王の前に出る者は殺されるという法令があったからである。しかしモルデカイは、神様が必ず脱出の道を備えてくださると信じていた。エステルが沈黙を守っても、「別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう」と語る(14)。
モルデカイは続けて言った。「しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう」と。モルデカイは一方では神様の救いが与えられると信じつつ、「あなたにできることをしなさい」とエステルの背中を押した。モルデカイにとってエステルは愛娘である。自分が死んでも生きて欲しいと願ったはずである。しかしモルデカイは、エステルが無事でいることよりも、エステルが神様に従う道を選び取ることを願った。
「受けるよりも与えるほうが幸い」と主イエスが言われたように(使徒20:35)、神に従う道は、「受ける」よりも「与える」道である。エステルはモルデカイの言葉に促され、自分の出生を隠して身の安全を「受ける」のではなく、危険を覚悟して自分を「ささげる」道を選ぶ決意をした。
私たちには、エステルのように民族の運命の鍵を握る場面には立ち会わないかもしれない。しかし、神様が一人ひとりにご計画をもっておられる点は共通している。「受ける」より「与える」道を選ぶことを通して、神様は御心を明らかにされる。
「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(14)