エゼキエル書20章33〜44節
「汚された安息日」
人生の順境だけではなく、人生の逆境においても神様はおられる。バビロンに強制移住させられた人々に対し、神様はみことばを語られる。エジプトの奴隷時代からの解放、荒野の旅、国家樹立とその後の歩み…そのすべてにおいて神様は民に“いのちの道”を教えて来られた。しかし民はその道に歩まず、神様の恵みを無駄にしてきた。神様は「(わたしの民は)わたしの安息日をひどく汚した」と嘆く(13)。
安息日の起源は、創世記2章にさかのぼる。神様が天と地をお造りになったあと、7日目にすべてを休まれた。神様の休みは“休憩”ではない。神様は、手を止めて・造られたすべてをご自身の祝福の中に入れられた。
その後、神様はイスラエルの民を“神様の祝福を全世界に運ぶ器”としてお選びになった。そして彼らが安息日に手を止めて・神様を礼拝することにより、神様の祝福がイスラエルを通して全世界に及ぶようにされた。神様は今でも、神の民である教会が礼拝することによって、礼拝者たちを通して祝福が全世界に及ぶようにしておられる。
私たちの礼拝は、オルガンの前奏で始まり、終わりのアーメンまでなのだろうか。礼拝が終われば、あとは自分たちの日常なのか。そうではない。私たちは礼拝の終了とともにそれぞれの生活に派遣され、そこで礼拝者として生きる。仕事も家事も学びも趣味も、広い意味ではすべてが礼拝である。主の日の礼拝から遣わされ、また主の日の礼拝へ帰って行く。私たちは自分が生活するその場所で、神様の祝福を運ぶ器として用いられている。
とは言え、過度に身構える必要はない。神様が求めておられるのは、完全な自分を人前に出すことよりも、神様に信頼することである。様々な弱さや重荷を抱えたまま、主を頼って歩もう。神様は私たちを用いて祝福を届けてくださる。
「わたしはまた、彼らにわたしの安息日を与えて…」(12)