エゼキエル書3章1〜11節

「主のみことばに生かされて」

 

 神は、エゼキエルに“この巻き物を食べよ”と言われた。普通なら、とても食べられないと思うところだが、エゼキエルは素直に口を開けて巻き物を食べた。すると、それは蜜のように甘かった。

 

 この幻には、“みことばを食べるように読みなさい”というメッセージが込められている。食べ物をよく噛んで味わうように、みことばを噛み砕いて理解し、その内容を思い巡らして深く味わうように、ということである。みことばの深いところには主の恵みがあり、それを味わうと力が湧いてくる。

 

 ある牧師は、「食べる」という言葉に“みことばに主体的にかかわる”という意味を見出している(榎本)。自分から積極的にみことばを求め、みことばの意味を探り求めるならば、豊かな祝福と慰めをいただくことができる。

 

 みことばは、誰かが語り、誰かが聴くものである。神はエゼキエルに、みことばの聞き手となるように求められた。神は私たちにも、みことばの聞き手となることを求め、願っておられる。

 

 またエゼキエルは、“みことばを聞いた通りに語れ”と命じられた。語る対象は、すでにバビロンに捕らえ移されているイスラエルの民である。バビロン市民と違い、イスラエルの民には言葉の壁はない。しかし心の壁がそびえ立っていた。イスラエルの民は神の言葉に関心を示さず、頑なで、聞く耳がなかった。

 

 神はエゼキエルを強め、励まされた。イスラエルの強情さが「火打石」なら、神はエゼキエルを「金剛石(ダイアモンド)」のように強くする、と言われる。だから恐れるな、と(9)。それでもエゼキエルは恐れ、7日間、民の間で呆然としていた(15)

 

 誰かに福音を届けたいと思う時、エゼキエルのような葛藤を抱えることがある。こちらの熱意とは裏腹に、相手が福音に対して冷めている。聞く耳がない。心の壁がある。関係が近い相手ほど、困難を感じる。相手が福音を拒んだとしても、自分との関係が崩れるわけではない。おせっかいかもしれないが、福音のすばらしさを知る者として、信じてもらいたいと願う。その願いは、祈りとなる。「母は涙 渇く間なく 祈ると知らずや」(讃美歌510)。