エゼキエル書38章17〜23節

「目をさましていなさい」

 

 エゼキエル38,39章にはゴグについての預言が語られている。ヨハネの黙示録によれば、ゴグは、“世の終わりに現れ、神と教会に対して戦いを挑む悪の勢力”と言える(黙20:8)。私たちにとってゴグは謎めいた存在であるが、神は“ゴグについては、わたしが預言者たちを通して語ってきた”と言われる(17)。つまり神は、ゴグの正体もその結末も、すべてを知っておられるのである。

 

 ゴグが世界中の力を結集して神の民に攻めて来る時、神は怒りを燃やしてゴグに立ち向かう(18)。神の怒りは「ねたみ」と言われ(19)、これは「熱心」「情熱」「熱愛」という意味を持つ。神は「ねたみ」という言葉で、どんなに真剣に私たちに愛を注いでおられるかを示しておられる。神が私たちのためにゴグと戦ってくださるのは、私たちを愛する故なのである。

 

 世の終わりに関して聖書が私たちに教えることは、よくわからないことや恐ろしいことがあるかもしれない。しかし、すべては神の御手の中にあり、神がすべてをご存知であられ、神が私たちを愛し、私たちを守ってくださることを覚えたい。

 

 主イエスはたとえ話によって、世の終わりに備えることを教えられた(マタイ25)。結婚式の祝いを前に、花婿を出迎える10人の娘がいた。そのうちの5人は、予備の油を用意していた。花婿の到着は遅れ、娘たちは居眠りしてしまった。花婿が到着した時、明かりの油が切れていた。予備の油があった娘たちは花婿を迎えて祝宴に入ったが、用意がなかった娘たちは間に合わなかった。

 

 結論として、主イエスは「目をさましていなさい」と言われた。花婿である主イエスを迎える準備をしておく、ということである。娘たちが居眠りしても花婿を迎えることができたように、「目をさまして」とは自然体でいられることである。

 

 私たちは「目をさまして」と言われると、自分を取り繕おうとしてしまうが、主イエスがしてくださったことに目を注ぎたい。主イエスによって、私たちのすべては神に受け入れられており、私たちの終わりは結婚式のような大いなる喜びに変えられている。「目をさます」とは、主イエスを信じることである。