エゼキエル書41章1〜4節
「幻の神殿」
エゼキエルは、主の幻の中で新しいエルサレム神殿を見る。御使いは神殿の大きさを測量して見せながら、エゼキエルを案内した。この幻によって、神殿の細部が設計図のように詳細に示されたが、これが捕囚後の神殿再建に用いられるものではなかった。
神様はこの幻によって、イスラエルの人々が礼拝者として回復する姿を示された。人々は「私たちには神殿があるのだからバビロンから守られる」と信じて疑わなかったが、預言者たちの言葉は聞こうとしなかった。外見は熱心に礼拝していたが、心から神様を求めていなかった。神様は、そんな彼らに新しい心を与えて、礼拝者として回復すると約束しておられる。
神様は私たちを礼拝者として回復してくださる。主イエスが十字架の贖いによって罪から救ってくださるのは、私たちを礼拝者とするためであった。神様は私たちを礼拝者として必要としてくださり、私たちが神様を求めて礼拝することを喜んでくださる。教会とは建物のことではない。礼拝者の集まりを教会と言う。私たちの集まりが、神様をお迎えする器とされる。エゼキエルが見た幻の神殿は、礼拝者とされたイスラエルの民を現していた。
御使いはエゼキエルを本堂の中に案内した。その奥には至聖所があった。すでに神の栄光は神殿から去っていた(エゼキエル10章)。しかし幻の神殿に至聖所があるのは、神の栄光が必ず戻って来る“しるし”である。エゼキエルは大いに励まされた。
神様は私たちの礼拝にも来てくださる。礼拝に主がおられるから、賛美はささげものになり、説教は神の言葉となる。私たちが互いに励まし合って礼拝に集う時、「これが至聖所だ」と言われた神様の約束は、礼拝において成就している。
「これが至聖所だ。」(4)