エゼキエル書6章1〜16節
「わたしが主であることを」
BC597年、エゼキエルの人生を大きく揺るがす出来事が起きた。南ユダ王国がバビロン帝国に敗れ、エゼキエルはエホヤキン王と共にバビロンに移された。しかし捕囚の身となって5年目に、神様はエゼキエルを預言者に任命される。
バビロン捕囚は歴史的な出来事であるが、それ以上に神が罰を裁かれたという信仰的意味が重要である。神様に罪を裁かれるという経験は、神様が守護者ではなく審判者になったことを意味する。人々は故郷を失い、神殿を失い、人を失った。しかしそれ以上に、守護者としての神様を失う喪失経験をした。
そういう体験の中で、神様がエゼキエルを預言者にしたことは大きなメッセージを含んでいる。神様は主の民を裁かれたが、今もなお見捨てていない。実に神様は、バビロン捕囚を通して、主の民に神様を求める心を育もうとしておられる。エゼキエルが選ばれたことは、神様が民を倒そうとしているのではなく、建てようとしているしるしである。
神様は主の民を罪と決別させて、新しく創り変えようとされる。イスラエルの山や谷には、異教の神々を礼拝する祭壇が作られていた。民には、それらの神々を求める心が根深く残っていた。神様はバビロン帝国による攻撃により、それらの祭壇を一掃される。そこまでしてようやく、主の民は神様が「主であることを知る」(7)。
バビロン捕囚という喪失経験の中でも、神様はエゼキエルを通して語り続ける。私たちは自分の傷や重荷を通して、神様を求め、神様を知ろうとする。神様はその時、「愛されずとも愛する愛」(渡辺和子)を私たちに知らせてくださる。
「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。」(エレミヤ29:13,14)