エレミヤ書36章1〜8節、21〜26節

「焼かれたみことば」

 

 「ヨシヤの子エホヤキムの第4年」は、バビロン帝国が世界の覇者として君臨した年であった(BC609)。この出来事はイスラエルの罪を裁く準備が整ったことを意味していた。神様は裁きの時が近いことを知らせるために、神様からの使信を巻き物に書き留めるよう、エレミヤに命じた。

 ここに聖書ができていく過程を見て取ることができる。神様は預言者にみことばを語らせるだけでなく、それを書き留めるように命じた。書かれたみことばは人々に読まれ・書き写されて、人から人へ・時代から時代へと受け継がれた。

 神様がみことばを書き留めるように命じたのは、「すべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる」と思われたからであった。聖書は罪を裁くためにあるのではなく、罪の赦しを得させるためにある。みことばを読んで自分の罪を知るところに留まらず、豊かな赦しへと進み、神様の恵みに感謝する者でありたい。

 エホヤキム王は、憎しみと怒りを込めてみことばを踏みにじった。王はエレミヤの書いた巻き物を取り寄せ、家来に朗読させ、そして読んだ部分を小刀で切り取って暖炉の火で焼いてしまった。こうして神様の招きを拒んだのである。

 しかし、みことばが焼かれてしまっても、みことばの源である神様ご自身は生きておられる。神様が生きておられる以上、何があってもみことばは決して無効になることはない。

 私たちの信仰は、信じる気持ちの強さによるものではない。私たちは心が変わったり・決心が揺らいでしまう者であって、自分の意思など当てにならないと知っている。しかし、みことばは今も生きて働く神のことばである。みことばを信頼することによって、私たちの歩みは確かなものとされる。

 

「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8