ゼカリヤ書13章1〜9節

「来たるべき日に備えて」

 

 ゼカリヤ書1214章は、「主の日」について語っている。「主の日」とは、“神によってもたらされる総決算の時”である。すべての人は神の御前に立ち、神のさばきを受ける。また、主を待ち望んで来た者たちは神の救いを受け、すべてが報いられる。

 

 私たちは「主の日」というメッセージに対して、どのように向き合うだろうか。神の救いをいただくことは希望であるが、自分の罪がさばかれることを思うと不安になるのではないか。だからこそ、私たちは「主の日」に対して、みことばによって整えられる必要がある。預言者ゼカリヤは、「主の日」について語ることで、主にお会いする備えをさせた。

 

 「主の日」、神は本物と偽物を明らかにする(2)。地上には神と呼ばれるものが数多くあるが、それらの中で真実な神はどなたであるかが公に示される。それ故、「主の日」には、偽物の神のお告げを語った者たちは恥じ入り、自分の過去を隠そうとする(4-6)。

 

 ところが「主の日」にすべての偽りが暴かれると、人は意固地になり、自分の非を認めようとしなくなってしまう。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」とのみことばを受け止め(伝道者の書12:1)、神に帰る時を先延ばしにしてはならない。

 

 しかし「主の日」に、「罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」(1)。この泉は、主イエスにおいて実現した。主イエスは私たちの罪を償うために十字架で死なれたお方であり、罪を赦し・汚れをきよめることのできる唯一のお方である。そして主イエスは、ご自分を「泉」として示し、人々を招かれた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37

 

 人はどんなに賑やかにしていても、それでは満ち足りることのない「渇き」がある。その「渇き」を侮ってはならない。それは、人を人と思わなくなるような「渇き」であり、神の御子さえも十字架に追いやる「渇き」である。私たちが自分の「渇き」に気づき、「罪と汚れをきよめる泉」を求めることができるよう祈ろう。主イエスという泉から、あふれるばかりにみことばをいただこう。これが、来るべき「主の日」に対する備えである。