ゼカリヤ書6章9〜15節
「神の恵みを受けてこそ」
預言者ゼカリヤはペルシア帝国「ダリヨス王の第2年」(1:1)、BC520年から活動した。すでにイスラエルの民はエルサレム帰還を果たし、神殿建設が進むはずであった。ところが、エルサレムに移住させられた人々(後のサマリヤ人)の妨害により、建設工事は中断してしまう。それから16年の年月が流れていた。
イスラエルの人々は心をくじかれた。神への感謝にあふれ、自己犠牲を惜しまなかった16年前の志は、どこかに消し飛んでしまった。“エルサレムに帰らなければよかった”と不平不満が溜まり、他者を顧みないで利得を貪っていた。そのような状況でゼカリヤはみことばを語り、神殿建設に向かうよう預言者として励ました。
行政面のリーダーであった総督ゼルバベルには、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」というみことばが与えられた(4:6)。神が神殿建設を成し遂げてくださるから、恐れないで立ち向かいなさいと、神はゼルバベルを励まされた。
信仰面のリーダーであった大祭司ヨシュアにも、みことばが与えられた。神は大祭司ヨシュアに王冠をかぶせるように命じる。これは、やがて来られる救い主を暗示する“しるし”であった。神は神殿再建の先に、大祭司であり同時に王である救い主を備えておられた。来るべき救い主こそ「主の神殿を建て直す」お方であり、このお方によって神の救いが完成される。神はこのようにして、神殿建設が神の救いのご計画の一環であることを示し、大祭司ヨシュアを励まされた。神殿再建の中核は、建物の建設にあるのではなく、神の恵みを神の恵みとして受け取るよう、信仰を整えることにある。
主イエスは最後の晩餐の時、弟子たちの足を洗われた。足を洗うのは奴隷の仕事であったため、弟子たちは驚いた。ペテロは「洗わないでください」と断った。遠慮しただろう。しかし主イエスはペテロに言われた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(ヨハネ13:8)主イエスに足を洗っていただくことが、神の恵みを正しく受け取る唯一の道であった。私たちもためらうことなく、主イエスに洗っていただこう。