ピリピ人への手紙1章1〜30節
「生きることはキリスト」
パウロは、ピリピ教会について「最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています」と語る(4,5)。「福音を広める」という言葉には2つの意味がある。まず、教会が迫害を受けながら、ピリピの町で福音を宣べ伝えてきたこと。次に、教会がパウロの宣教活動を経済的に支援して、福音を伝える働きを共に担ってきたことである。パウロはピリピ教会と共に、福音に仕えてきたことを喜び、感謝している。
福音は喜びをもたらす“良い知らせ”である。私たちが主イエス・キリストによって深く愛されていること。主イエスの十字架で私たちの罪が償われたことにより、主イエスにあって罪の赦しを得られること。主イエスの復活によって、私たちは死の後に神の命が与えられること。福音は生命力にあふれていて、失望している者を立ち上がらせ、恐れている者に勇気を与える。
この時パウロは投獄されていたが、福音はその生命力によって新たな局面を切り拓いた。普段は親しく語る機会のない兵士たちに、福音を語ることができたこと。パウロが投獄されたことで福音宣教に奮起した者たちがいたこと。党派心をもって宣教している者もいるが、結果的に福音が宣べ伝えていること。パウロは投獄されてもなお福音を喜び、その力を証ししている。
福音に生かされる者にとって「生きることはキリスト」である。生きていれば辛いことや悲しいことを経験するが、福音を通してもう一度やり直す力が与えられ、福音が証しされる。またパウロは「死ぬことも益」と語る。投獄さえ福音宣教の契機になったのであれば、自分の死も福音宣教に益するとパウロは信じた。
私たちは自分の目線で物事を見ることに終始してしまうことが多い者であろう。しかし福音を通して神さまの目線に気付くことができる。神様がどんなに私を喜んでおられるか。どんなに私や家族のことを配慮し・必要なものを備えてくださるか。私たちは、福音によって神さまの存在に触れ、力を得ることができる。福音のダイナミックな生命力に生かされて歩みたい。
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」(21)