ヘブル人への手紙13章7〜21節
「昨日も今日もいつまでも」
「きのうもきょうも、いつまでも」(8)。これは、私たちを時間の大海原へと導く言葉である。悠久の時の流れが、そこにある。しかし現実に目を向けると、そのような時間は実在するのかと思われる。仮に時間が無限に続くとしても、自分自身は有限である。地球も宇宙も有限である。だからこそ、その誕生の神秘を探る。聖書は、人類も地球も宇宙もいつかは終わりを迎えると語る。「きのうもきょうも、いつまでも」存在できるのは神様だけである。イエス・キリストは神である。
主イエスは神であるお方でありながら人となられ、「門の外に出て苦しみを受けられた」(12)。これは、主イエスがエルサレム郊外のゴルゴダの丘で十字架の苦しみを受けられたことを意味する。“門の内側”には市民生活があり、エルサレム神殿を中心とした礼拝生活がある。しかし、そういう市民生活や礼拝生活からは想像もつかない仕方で、救いの道は主イエスによって明らかに示された。十字架の死、三日目の復活、そして昇天。すべてにおいて、人間の予想をはるかに凌駕する仕方で、永遠への道は拓かれた。
人間の世界にも様々な道がある。成功者の道があり、ささやかな幸せの道がある。逃亡の道があり、自己破滅の道がある。いかなる道も、死から先は存在しない。死から先の道すなわち永遠への道は、主イエスから続いている。それ故、「私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」と語られる(13)。世の豊かさや安定を求める道は、“宿営の中に入る”道である。神様は、世の繁栄・安心の基準から離れて、主イエスが歩まれた十字架の道へ私たちを導く。世の富を求める道は、永遠には至らない。しかし十字架の道は、イエス・キリストが「きのうもきょうも、いつまでも」共に歩んでくださる道であり、永遠に続いていく。このお方は「永遠の契約の血」によって私たちを贖ってくださるお方であり、「大牧者」として私たちと共に歩んでくださる救い主である。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(8)