ヘブル4章1〜16節

「大胆に恵みの御座に近づこう」

 

 「神の安息に入るための約束はまだ残っている」と呼びかけられる(1)。「あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように」と続く。ここで手紙の著者は、神の願いを代弁している。その願いは、教会に集う者たちみんなで、神の安息に入ることである。

 教会は迫害されていた。どんなに厳しいことであったかと思う。自分の信仰がふるいにかけられる経験をする。これまで共に教会に集って来た者たちの足並みが揃わなくなる。心がかたくなになってしまうのだ。

 著者は、出エジプトを経験した世代を反面教師として例にあげる。彼らはエジプトと海と荒野で神の奇跡を体験し、神のことばを聞いた。しかし事あるごとに、エジプトを出たことを後悔し、神の約束を信じなかった。そのため、その世代は約束の地カナンに入ることができなかった。「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と勧めがなされる(7)

 神を信じることは、恐れているのを偽ったり、不安なのに平気なふりをすることではない。神の言葉は生きていて、心のいろいろな考えやはかりごとを判別する(12)。「神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されて」いる(13)

 神の御前で自分をごまかすことはできない。いや、ごまかす必要がないのである。というのは、私たちのために大祭司であるイエス・キリストがおられるからである。主イエスは私たちのすべての罪を贖い、天に着座されたお方であり、人として私たちと同じように試練や誘惑を経験された方でもある。それ故、私たちの弱さをわかってくださる(15)

 「私たちの信仰の告白を堅く保とう」とある(14)。「堅く保つ」はギュッと握ることである。主イエスをギュッと握るようにして信じる。そして恐れや不安に対する「おりにかなった助け」を求めて、「大胆に恵みの御座に」近づきなさいと招かれている(16)。私たちは、主イエスの故に、あらゆる弱さやためらいを超えて「大胆に」神の恵みを求めて、神に近づくことができるのである。