ホセア6章1〜11節
「神のまなざしの中で生きる」
北イスラエル王国は、アッシリアによる侵略によって坂道を転がり落ちるように衰退し、ついに滅亡に至った。そのような激動の時代に、預言者ホセアは神のことばを語った。
イスラエルの人々はアッシリアの攻撃を受けたことで「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、またいやし、私たちを打ったが、また包んでくださるからだ」(1)と悔い改めの姿勢を示し、主に救いを求めた。しかし神は「あなたがたの誠実は朝もやのようだ」(4)と、イスラエルの悔い改めを退けられた。
実はイスラエルは長年に渡り、バアルという異教の神を礼拝していた。国中にバアル礼拝の祭壇が作られ(7-9)、バアルの恩恵で国が栄えたと考えられた。アッシリアの脅威を感じて神さまに立ち返ろうとしたものの、人々が恋い焦がれていたのは、豊かさという偶像であった。人々は“豊かにしてくれるならバアルでも主なる神でも礼拝もする”という姿勢であった(2:7参照)。神はこのような姿勢を見て、“朝もやのような誠実さだ”と言われた。
自分のことを振り返ると、朝もやのような誠実さであると思わされる。口だけの告白、信仰の伴わない祈り、悔い改めてもまた罪に戻るような愚かさがある。しかし「わたしのさばきは光のように現れる」(5)とあるように、みことばの光が差し込む時、私たちの愚かさは露わにされる。そして同時に、みことばは私たちに救いをもたらす。「主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださる」(1)という救いが、みことばによる出来事となって私たちに与えられるのである。
主イエスは復活の後、ペテロに「わたしを愛するか」と尋ねてペテロに誠実を求められた(ヨハネ21章)。ペテロは主イエスを否んだ弱さを痛感しつつ、「あなたを愛することは、あなたがご存知です」と応答した。「ご存知」とは“見る”という言葉である。ペテロは主イエスのやさしいまなざしを感じ、「御前に生きる」者とされ(2)、「あなたを愛します」と応答することができた。みことばの光のうちに、神のあたたかなまなざしに支えられるようにして御前に生きる。そこに、神が喜ばれる誠実がある(6)。