マタイの福音書10章16〜23節
「蛇のように、鳩のように」
主イエスは、弟子たちが迫害にあう時の備えとして「わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです」と言われた(16)。迫害時には、世の中と教会の関係は狼と羊のようになる。世は教会を敵対視し、正義感に燃えて迫害する。普通の羊飼いであれば、狼の中に羊を送るようなことは絶対にしない。しかし主イエスという羊飼いは、教会を狼の中に遣わされる。それは、主イエスを証しするためである(18)。
それ故、主イエスは「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」と言われた(16)。「蛇」はサタンを連想させるが(創世記3、黙示録20:2)、古代の世界では“知恵のある賢い生き物”と考えられた。主イエスは、迫害の中においては一層、知恵を働かせるようにと言われる。この知恵は見抜く力である。迫害の状況を見抜き、相手を見抜き、自分の限界を見抜く。そして危険を避けるのである。パウロはイコニオムにおいて石打ちの計画があることを知ると、すぐに町を去って難を逃れた。キリスト者は主イエスの故に受けなければならない苦しみがあるが、自分から進んですべての迫害を引き受けなくても良い。逃れられる迫害からは逃れ、別の町で福音を証しするように命じられている(23)。
また迫害においては、知恵と同時に鳩のような素直さが求められる。この素直さとは、みことばをまっすぐに信じる信仰である。主イエスは裁判にかけられる時にも、何を話そうか・どう話そうかと心配する必要はないと言われた(19)。なぜなら聖霊が語るべきことを教えてくださると約束されているからである(20)。ペテロはこの約束をまっすぐに信じて、裁判にかけられても大胆に主イエスの復活を証しし、福音を宣べ伝えた(使徒5:29-32)。
迫害の時、私たちは主イエスを証しするために、見抜く力とみことばに信頼する力によって、最後まで耐え忍ぶ(22)。耐え忍ぶことは、ただ我慢だけではない。主イエスを仰ぎ見ながら、希望を抱いて耐え忍ぶのである。主イエスは私たちのために死んでくださり、主イエスのいのちによって私たちは生かされている。この揺るがない希望の故に、迫害に備えてゆこう。