マタイの福音書11章20〜30節
「主イエスを求めて、主イエスと共に」
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(28) 主イエスは「来なさい」と私たちを招かれる。主イエスは私たちの重荷を軽くし、魂に平安と休息を与えてくださる。
主イエスは「休ませる」と言われる。この「休み」は、「わたし(主イエス)のくびきを負って、わたしから学ぶ」ことで与えられる。「くびき」とは、二頭の牛を横並びにつなげて働かせる道具である。主イエスのくびきを負うことは、主イエスに従って生きることを意味する。なぜ、主イエスのくびきを増やすことが「休み」になるのか。この不思議こそ、この箇所の謎を解く鍵である。
主イエスは、“すべての人は生きることにおいて幾つものくびきを負っている”と考えておられる。何かをする責任というくびき、何もできないが生きなければならないくびき、家族のくびき、職場のくびき、誰かに世話になるというくびきなど。これらのくびきが時に重荷となり、疲れとなる。ところが、主イエスというくびきを負うと不思議なことが起きる。自分が背負っている様々な重荷が軽く感じられ、休ませてもらえるのである。
「休ませる」とは、楽器の弦を緩めることである。自分を緩めるために様々なリフレッシュ方法があるが、みことばによる養いに勝るものはない。神は私にぴったりのみことばをくださって、私を理解し、私を受け入れてくださる。神は恐怖と支配によって私を動かそうとするのでなく、神の愛によって頑なな自我を溶かし、勇気と希望によって私を慰め、私を立たせてくださる。
主イエスは「わたしのくびきは負いやすい」と言われる(30)。主イエスのくびきは、動くと擦れて痛くなるようなものではなく、私が心地よく感じる・私に合ったくびきである。これは、私が私なりのスタイルで神を信じて良いということを意味する。主イエスに従って生きることは、決まった枠に自分を押し込むことでなく、私という個がより生き生きとすることである。
主イエスを求め、主イエスのくびきを負い、主イエスに学ぶ。私たちは主イエスを求めて、主イエスと共に歩む者でありたい。