マタイの福音書12章1〜8節

「神さまのやさしさをいただいて」

 

 ある安息日、主イエスの弟子たちは空腹になり、麦の穂を摘んで食べ始めた。するとパリサイ人たちがそれを見つけて、「安息日にしてはならないことをしている」と弟子たちを訴えた。確かに神は十戒で安息日を守るように命じておられるが、パリサイ人たちの訴えは安息日の心を損なうものであった。

 

 主イエスは「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」というみことばから話された(7)。「いけにえ」とは、パリサイ人の礼拝のように、神を思うことを忘れ、“私はあれもやった、これもした”と自分の行いによって自分を正しい者とし、やっていない人を裁く安息日である。神はそのような安息日を喜ばれない。

 

 これに対して「あわれみ」とは、真実の愛で神を礼拝する安息日である。すなわち、その時の自分の精一杯で神を礼拝することである。私たちは自分をきれいに取り繕って礼拝する必要はない。むしろ、不安や課題や罪を含んだ自分自身を神に差し出す。

 

 礼拝者と神の関係は、料理人とお客にたとえることができる。料理人は精一杯のものをお出しする。それをお客が「おいしい」と喜ぶことで食事の席は完成する。礼拝も同様に、礼拝者はその日の自分を精一杯ささげる。その時、“神がこの礼拝を喜んでくださるか”という余白を残してささげる。その余白に、神への愛が宿る。神を思ってささげる一期一会の礼拝を、神は喜ばれる。

 

 「人の子は安息日の主です」(7)。安息日は主イエスを求めることで完成するものである。主イエスは、ご自身を求める者にみことばを通して神のやさしさを教えてくださる。みことばは私たちの罪を明らかにするが、その先に神のやさしさがある。私たちは安息日を通して、神が私たちをどれほど愛してくださり、何度も赦し、深く受け入れておられるかを学ぶ。

 

 神のやさしさを知る時、私たちは心を動かされ、誰かにやさしくしたいと思うようになる。これは、誰かに命じられてすることではない。神のみことばに心を動かされて、自分の意志でそうしたいと思うのである。私たちは神のやさしさをいただいて、真実の愛で神を礼拝する者でありたい。