マタイの福音書12章22〜37節

「神の国はもう来ている」

 

 主イエスのところに、悪霊に苦しむ人が連れて来られた。主イエスがその人をお癒しになると、群衆は驚いて「この人はダビデの子(救い主メシア)ではないか」と語り始めた。それを聞いたパリサイ人は、“イエスは悪霊のかしらの権威で悪霊を追い出しているだけだ”と言って、主イエスがメシアであることを否定した。

 主イエスは「どんな国でも内輪もめして争えば荒れ廃れる」と言われた。悪霊のかしらが悪霊を追い出すというのは内輪もめと同じであって、悪魔の国であっても立ち行かなくなってしまう。だからパリサイ人の主張は矛盾している、ということである。

 

 主イエスは別の視点を提供する。「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ている」(28)。主イエスが神の霊で悪霊を追い出しているということは、悪霊のかしらが縛り上げられて、神の国がここに来ていることになるではないか、と主イエスは語る。

 

 私たちは自分の現実において、神の国がもう来ていることを信じているだろうか。たとえ私たちが打ち倒されることがあっても、主イエスは私と共にいてくださる。であるならば、私は倒れて起き上がれなくても、神の国はもう来ているのであって、神の救いのお働きはすでに始まっていると言える。

 

 主イエスは、聖霊の働きを信じないパリサイ人に対して“聖霊に逆らう者は赦されない”と言われた(31,32)。これはどういう意味なのか。“主イエスを信じて赦されても、聖霊に逆らったら赦しが取り消される”ということなのだろうか。

 

 聖霊は助け主であって、私たちの信仰を助け・支えてくださる。聖霊の助けがなければ、私たちは信仰決心もできず、信じ続けることもできない。聖霊に逆らう罪とは、そのような聖霊を意図的に拒み、主イエスの救いを断固拒否することである。たとえ、過去に救いを拒否しても、今、悔い改めて主イエスの救いを求めているなら、その人は神の国に迎え入れられている。

 

 私たちの周りには、様々な闇が広がっている。しかし闇の中に光が輝くように、神の国はもうあなたのところに来ている。