マタイの福音書12章9〜21節
「神のしもべの働きによって」
ある安息日、主イエスが礼拝のために会堂に入られると、そこに片手の不自由な男がいた。そこでパリサイ人たちは主イエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことか」と言った(10)。
パリサイ人たちは、“いのちの危険がある場合は、安息日でも手当をして良い”としていた。この考えによると、手の不自由さは重い症状ではあるがいのちの危険はないと言えるので、安息日の今日、癒しを行わなくても良いということになる。
しかし主イエスは言われた。たった一匹の羊が安息日に穴に落ちたら引き上げてやるだろう、と(11)。パリサイ人たちは、安息日であっても羊を穴から引き上げて良いと教えていた。ところが、ここに矛盾が生じている。パリサイ人たちは、羊は助けても良いが手の不自由な人は助けてはいけないと主張したことになる。主イエスは「人間は羊よりはるかに値打ちのあるもの」と言って、この人を癒すのは正しいと証明された。主イエスが「手を伸ばしなさい」と言われると、この人の手は動くようになった。
預言者イザヤは、このような主イエスの働きを預言して「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」と言った(20)。傷の入った葦もくすぶって火が点かない燈心も、一般的には役に立たない物とされる。手の不自由な男は、変わり果てた手を憎み、自分を不要な者と思ったかもしれない。惨めさや情けなさを理解してもらえず、孤独を感じていたかもしれない。
しかし主イエスは、彼のことを深く理解し、彼を救うためにしもべとなって働かれる。神はあなたを家に一匹だけの羊のように大切に思っておられ、生きる価値のある人として見ておられる。主イエスは「いたんだ葦」のようになっていた彼を回復させ、「くすぶる燈心」であった彼の心に希望の火を灯された。
主イエスは「いたんだ葦」のような私たちを捨てることなく、くすぶっている私たちを回復させ、完成へと導いてくださる。その完成の時、私たちは天の御国において、死を打ち破る神の力によって、神の栄光ある姿に造り変えられる(ピリピ3:20,21)。これらの救いはすべて、神のしもべとなった主イエスによるのである。