マタイの福音書13章1〜23節
「みことばの求道者となれ」
大勢の群衆が、主イエスの話を聞くために集まった。主イエスは、農夫が種を蒔くたとえ話を話された。しかし弟子たちは、そのたとえ話の意味がわからなかったので、「なぜ彼らにたとえでお話になったのですか」と主イエスに尋ねた(10)。
そのような弟子たちに対して、主イエスは驚くべき応答をされた。「あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」(16) 主イエスは、みことばを悟ることができない者に対して、“それでもあなたがたは救い主を見上げ、みことばに耳を傾けている”と言われた。私たちはみことばを読んでも得るものがないと、“読んでも意味がないのではないか”と思ってしまうが、主イエスはそんな私たちに“それでもあなたは主イエスを仰ぎ見ている”と助言をくださる。主イエスの助言に励まされて、聖書を読み続けたいと思わされる。
主イエスは弟子たちにたとえを説き明かされた。“種”はみことばであり、4つの種はみことばを聞いた者の反応を表している。4つの反応はすべて、自分に当てはまる。
①道ばたに落ちた種:みことばを聞いても、自分の考えに固執し、意地を張ってみことばに心を開かない。
②岩地に落ちた種:みことばを受け入れても、根がないために、試練や迫害や誘惑を経験すると信仰を手放そうとしてしまう。
③いばらの中に落ちた種:みことばによって成長するが、みことば以上にこの世のことに心と力を使い、自分をすり減らして、実を結ぶことができない。
④畑に落ちた種:みことばを聞いて実を結ぶ。
主イエスの願いは、私たちがみことばの実を結ぶことである。私たちは、道ばたの自分・岩地の自分・いばらの自分を脱ぎ捨て、みことばを求める者でありたい。私たちは弱く・迷いやすく・それでいて頑固であっても、みことばは実を結ぶ力を秘めている。みことばは、私たちの力・支え・慰めとなり、私たちを立ち上がらせる希望となる。私たちにできることは、みことばの力を信頼し、みことばを追い求める求道者となることである。みことばを通して主イエスに従う道を求めつつ、新しい年を歩みたい。