マタイの福音書13章44〜52節

「隠された神の国を求めて」

 

 神から与えられる恵みは、私たちの目に隠されている。神は私たちが自分の生活において、神の国を捜し求めるように招いておられる。この真理を教えるために、主イエスは「畑に隠された宝」と「良い真珠を捜している商人」のたとえをされた。

 

 当時のイスラエルでは、盗人対策で宝を畑に隠すことがあった。ところが、その人が不慮の事故に遭うなどして、宝が隠されたままになることがあった。その宝を小作人が偶然発見すると、すべてを売り払ってその土地を買い、宝を手に入れる。これと同様に、真珠商人は理想の一粒を捜し求め、それを見つけると、持ち物を全部売り払ってその真珠を買い求める。

 

 私たちの日常には、私たちが求める神の助けや神の導きなど、神から与えられる恵みが隠されている。私たちは、小作人のように意図しない時に神の恵みに出会うこともあれば、真珠商人のように捜しに捜した結果として神の恵みを見つけることもある。いずれにおいても、神の恵みはすべての持ち物を売り払うほどの大きな喜びをもたらす。

 

 私たちは、隠されている神の恵みを捜し求める者でありたい。詩篇の作者は「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか」と神の助けを捜し求めた(詩篇121:1)。主イエスは、神の恵みを捜し求める者を「天の御国の弟子となった学者」と言われた。私たちも神の国の学者として神の助け・導きなどを捜し求め、神の国を探求し、その理解を深めたい。

 

 主イエスはもう1つ、地引き網のたとえを語られた。地引き網には良い魚も悪い魚もかかるが、漁師は良い魚と悪い魚を選り分ける。同じように、神の国には御国に入る者もそうでない者も混在しているが、主イエスは最後の審判ですべてを選り分ける。

 

 私たちは誰も完全な人間ではない。自分を掘り下げればボロが出て、汚いところが目に付く。しかし、自分が神に裁かれて捨てられると決めつけてはならない。なぜなら、私たちを救うために主イエス・キリストが来てくださったからである。主の御名を呼ぶ者は、誰でも救われるのである。