マタイの福音書18章1〜9節

「幸せに生きる関係」

 

 主イエスは、弟子たちが“誰が一番偉いか”を論じ合っているのをご覧になり、「みなに仕える者になりなさい」と言われた(マルコ9:35)。弟子たちが「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」と尋ねると、主イエスは「悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には入れません」とお答えになった(3)。「子どものように」とは、「この子どものように、自分を低くする者」とあるように(4)、人に対してへりくだることである。

 

 私たちにとって、人に対してへりくだることは難しい。というのは、私たちには承認欲求があり、自分のことを認めて欲しい、褒めて欲しい、労って欲しいと思うからである。この欲求が度を越えてしまうと、自分を上に見て・人を支配するような言動が出てしまう。“誰が一番偉いか”というのも、その一例である。

 

 主イエスは「このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れ」なさいと言われた(5)。この“子ども”を、理不尽なクレームや面倒な仕事依頼など、私たちが顔をしかめることに置き換えたい。それを「わたしの名のゆえに受け入れる」とは、神さまに祈りながら対応することである。ある時はそれを引き受け、ある時はそれを考える機会とし、ある時は断る。様々な応答が想定されるが、まず祈る。私たちは自分が直面する事柄を祈りながら対応することを通して、へりくだることを教えられていく。

 

 また主イエスは、つまずきを与えないようにしなさいと言われた(6)。つまずきを与えるとは、立ち上がれないほどに人を傷つけることである。人が集まるところ、つまずきは避けられない(7)。だからこそ私たちは、自分がつまずきを起こしてしまうことを自覚し、自分でつまずきをもたらす手足を切れと言われるように、つまずきとなるものを自分から手放さなければならない。

 

 自分を低くすることと、つまずきを与えないようにすることは、コインの表と裏のように一つのことである。自分がつまずきを与えてしまうことを自覚し、神さまのあわれみを求めつつ生きる時、人は自分を低くすることができる。このような人と人が幸せに生きる関係を、祈り求める者でありたい。