マタイの福音書18章10〜20節

「わたしの名において集まる所には」

 

 主イエスは言われた。「この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい」(10)。神さまは、私もあなたもあの人も「小さい者」のひとりとして大切に思っておられる。

 

 神の愛は、100匹の羊を残して迷い出た1匹の羊を探すことにたとえられる。羊飼いは、迷い出た羊を探しに出かける。その姿は、イエス・キリストそのものである。主イエスは神のもとからこの世に来てくださり、十字架と復活によって救いを成し遂げてくださり、私たちを見つけ出して教会に連れ帰ってくださった。神の愛は、主イエスの存在と働きにおいて示されている。

 

 神の望みは「小さい者たちのひとり」が滅びないことである。神の願いは、神のもとから離れて行った者たちが帰って来ることである。たとえ、本人としては信仰を捨てたつもりでも、神は決して見捨てていない。神の愛は探し求める愛であり、見捨てない愛である。私たち一人ひとりが、この愛によって愛されている。

 

 神は、罪を犯している人に罪を気付かせ、悔い改めに導く教会に与えておられる。はじめは11で、自分がその人と向き合い、その人の罪を示す。もしその人が悔い改めるなら、兄弟を得たことになる。もし拒まれるなら、2,3人で対応する。さらに拒む場合は、教会の名前で気付かせる。これは、戒規の務めに相当する。

 

 戒規は教会裁判ではなく、教会を罪から守る砦のようなものである。戒規は自分が罪に行き過ぎてしまわないよう、自分を戒めるために存在する。しかし神さまは戒規に至る前に互いに戒め合い、私たちが神さまの愛から離れずにいることを願っておられる。

 

 私たちは誰も、神さまの御前に罪人である。神さまの愛を知っても、私たちは罪によって神さまから離れようとしてしまう。そんな私たちが神さまの愛に留まるために、祈りがある。主イエスは「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」と約束された(20)。私たちは教会のために祈り、互いのために祈り、そこにいない誰かのために祈り合う者でありたい。オーケストラが指揮者に合わせて美しい旋律を奏でるように、聖霊は私たちが心を合わせて祈るよう導いておられる。