マタイの福音書18章15〜20節
「主イエスがおられる教会」
(年間聖句②)
すべてのキリスト者は、地上にある限りは聖化の途上にある。そのため、教会として見過ごしにできない罪を犯す可能性がある。その場合、どうすべきか。“事なかれ主義”で、傍観者になることは教会を傷つけることになる。「ふたりだけのところで」その人の罪を責める英断が求められる。
果たして人の罪を責める資格が自分にあるのか。イエス様はマタイ7章で、「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」と言われた。主イエスによる十字架の赦しに真剣に生きよ、そして罪を犯した人を悔い改めと赦しに招けというのである。
もし罪を犯した人に“脱落者”のレッテルを張るならば、その人を教会から「解く」ことになる(18)。そういう教会にはイエス様はおられない。私たちは罪を犯した兄弟を責め、その人を教会に「つなぐ」努力を惜しんではならない。なぜなら教会には、十字架で身代わりに死なれたイエス様がおられるからである。教会には、主の赦し=福音が満ちている。
兄弟をつなぐために「地上で心を一つにして祈るなら」その祈りはきかれる(19)。「心を一つにして」とは、シンフォニー(交響曲)を意味する。主イエスはみことばによって指揮をされる。私たちはみことばに応答し、それぞれの音色を奏でる。礼拝を喜び、聖餐を祝い、互いに祈り合い、みことばの恵みを語り合い、人々をつなげる時、教会は神の栄光をたたえる美しい交響曲を世に響かせる音になっている。
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)