マタイの福音書19章1〜12節
「自分の当然を見直して」
ある時、パリサイ人たちが主イエスを試みてこう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」(3)この問いには、この当時の時代の価値観や考え方が色濃く表れている。それは、“男性は何かの理由があれば離婚する権利を神から与えられている”という認識である。私たちから見ると違和感を感じるが、これが当時の人々の“当然”であった。しかし主イエスは、そのような人々の“当然”を変革させようとする。
主イエスは創世記のみことばを引用する。神は人を創造される前の段階から、人類に結婚をいうものを備えておられた。人に男と女があること、父母を離れてふたりが一体となることを計画しておられた。結婚そのものが神の深い御心によるものであって、「人は、神が結び合わせたものを引き離してはならない」(6)。
主イエスはパリサイ人たちの問いに対して、“神は結婚をお与えになったのと同じように、離婚というものを想定しておられない。律法でも定められていない”と答えらえた。パリサイ人は申命記24:1を引用して、モーセは離婚状に言及していると指摘する。しかし主イエスは、“離婚は罪が入った結果として、神がお許しになっているもので、創造以前から備えられたものではない”と反論した。むしろ申命記24:1の「離婚状」は、立場の弱い女性を助けるためのものであった。
この議論の主旨は、神は離婚を認めるかどうかではない。サマリヤの女に見られるように(ヨハネ4)、神は離婚した者にあわれみ豊かであられる。むしろ主イエスは、“何かの理由があれば離婚する権利を神から与えられている”という男性たちの認識を真正面から否定し、その考えを改めるように迫られた。当時、誰もが“当然”と思っていたことを、みことばの光で見直すように言われた。
弟子たちは主イエスの主旨を理解し、“夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがまし”と言った。この反応から、弟子たちが当時の世の常識に深く影響されていたことがわかる。私たちもまた、世の影響下に生きている。自分の“当然”を振りかざして高ぶることなく、神に対して慎み深くあれるように祈ろう。