マタイの福音書19章23〜30節
「人にはできないが、神にはできる」
金持ちの青年が、主イエスに背を向けて去って行った。主イエスは、“金持ちが神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るほど難しい”と言われた。ここで言う「金持ち」とは、生きるためにお金を必要とするすべての人々を指している。すなわち、金持ちの青年も主イエスの弟子たちも、そして私たちも「金持ち」なのであって、そのままでは神の国に入れないという意味である。
弟子たちは驚いて「それでは、だれが救われることができるのでしょう」と語った(25)。主イエスは弟子たちをじっと見て言われた。“人にはできないが、神にはできる”。この青年のように幼い頃から律法を守ってきても、その行いによって永遠のいのちを手に入れることはできない。永遠のいのちは、人の努力や誠意によって得られるものではなく、神の手からいただくものである。
神は、どのようにして永遠のいのちを与えてくださるのか。主イエスを信じるに至ったきっかけを振り返ると、そこには小さな点のような何気ない出会いや平凡な出来事がある。実は、そういう小さな点において、聖霊が働いておられた。神の御手の中で、聖霊による点と点が結ばれて線となり、主イエスを信じることへとつながったのである。そのような不思議なる神のお導きと恵みをいただいて、私たちは主イエスを信じるように導かれた。神の奇跡が、自分の人生において起きたのである。
この世においては、主イエスに従うことで犠牲が伴ったり、悩みや痛みを経験することがある。主イエスはそのような犠牲や悩みに対して、豊かな報いと永遠のいのちを受け継ぐと約束される(29)。豊かな報いとは、私たちが主イエスからいただくあらゆる恵みや喜びであろう。そして永遠のいのちとは、死後に受け取るものではなく、今この世においていただくものである。私たちは永遠のいのちに生かされているが故に、主イエスを信じることから来る数々の恵みをいただいているのである。
主イエスを信じて永遠のいのちをいただくことは、“らくだが針の穴を通る”ような神の奇跡である。“人にはできないが、神にはできる”ことを成してくださった、主の御名をほめたたえよう。