マタイの福音書20章17〜28節

「 神の御手の中にある私たち」

 

  主イエスはエルサレムに向かう途中、弟子だけを呼んで、エルサレムでご自分に起きることを予告された。祭司長たちに捕えられ、裁判にかけられ、あざけりとむち打ちの末、十字架で殺される、しかし三日目に復活するという非常に具体的な予告である。

 

 この予告を聞いて、ヤコブとヨハネはあることを主イエスに願った。主イエスが王座に就く時、自分たちがその次の座に就くという願いであった。彼らは主イエスが王になることは見抜いていたが、神の国の本質を理解していなかった。主イエスは彼らの誤りを指摘しつつ、神の国における地位は神がお決めになると言われた。そもそも神の国において、人の上に立とうとすることや人を意のままに動かそうという野心は馴染まない。主イエスは、「みなに仕える者」「あなたがたのしもべ」になるように命じた。

 

 主イエスは、私たちにどれだけ仕えてくださったか。神の栄光を捨てて人となり、私たちの罪を背負って十字架で死んでくださった。主イエスは、すべてを与え尽くして私たちのしもべとなり、私たちに仕える者となってくださった。すべては、私たちを神の国に迎えるための奉仕の業であった。私たちは主イエスに仕えてもらった者である故、主イエスと同じ様になって、互いに仕え合うことが期待されている。自分の栄誉を求めたり、人からの報いを期待するのではなく、かえって人に仕えることを良しとするのである。これは、“自分というもの”を十字架につけたまま、主イエスについていくことである(16:24)。

 

 自分の栄誉も人からの報いも、“自分というもの”にこだわるところから始まる。主イエスは、ヤコブとヨハネに対して、「わたしの杯を飲みはします」と言われた。これは、彼らの人生の最後を予告した言葉である。今、ヤコブとヨハネは愚かにも自分の地位を求めているが、彼らはやがて生涯を通じて主イエスに従い通すことになると、主イエスは知っておられた。

 

 主イエスが私たちにかかわるすべてをご存知でいてくださり、御手の中に入れていてくださる。私たちは安心して自分にこだわって栄誉や報いを求めることを手放し、主イエスに従おう。