マタイの福音書21章12〜22節
「信仰を持ちなさい」
イエス・キリストの最後の1週間の足取りをたどっている。日曜日、大群衆の「ダビデの子にホサナ」という歓声の中、主イエスはロバに乗ってエルサレムに入られた。月曜日の朝、ベタニヤからエルサレムに向かう途中で、主イエスはいちじくの木をご覧になった。葉は茂っていたが、実がなかった。主イエスは、その木に対して“いつまでも実がならないように”と命じられた。火曜日の朝、弟子たちは、いちじくが枯れているのを見て驚いた。
この奇跡は、“実を結ばない木は滅ぼされる”というメッセージを示すものであった。この木は、ユダヤの民をたとえている。立派な神殿に大勢の人々が集まっているものの、救い主を受け入れようとしないユダヤの人々。その姿は、見た目は葉が茂っていても実を結んでいないいちじくと重なる。救い主を拒むならば、神から永遠の滅びを受け取ることになる。
主イエスは弟子たちに、“信仰を持ちなさい”と言われた。イエス・キリストを信じるならば、いちじくの木のようになることはない。なぜなら、主イエスがあの十字架で、私たちに代わっていちじくの木のようになってくださったからである。主イエスを信じるならば、“私という山”が滅びから救いに移される(21)。
月曜日、主イエスは神殿の異邦人の庭に入られ、両替商やいけにえを売る者たちを追い払われた。いわゆる“宮きよめ”である。これによって主イエスは、神殿が「祈りの家」となるべきところ「強盗の巣」になっていることを怒りと共に表された。「強盗の巣」とは、口先では神を敬うがその生活では神を軽んじることであり、神から恵みを奪う意味で「強盗」と言われる。「祈りの家」とは、世界中の人々が神の救いを喜び、神をほめたたえるようになることを言う。救い主イエス・キリストが世に来られたのだから、本来はこの場が「祈りの家」になるはずであった。ところが人々は救い主を迎えることなく、「強盗」と化していたのである。
私たちは改めて、主イエス・キリストを心にお迎えし、信仰を持つ者でありたい。人は自分のことを“こういうものだ”と決めつけそうになるが、そこに救い主をお迎えし、信仰を持ちたい。