マタイの福音書22章1〜14節

「主の祈りを身にまとって」

 

 

 主イエスのたとえ話である。舞台は王子の結婚披露宴。案内状はすでに招待客に送られている。準備が整い、王は招待客を迎えにしもべを遣わすが、客は畑や仕事を理由に来ようとしない。ある客はしもべを殺してしまう。主人は招待に応じなかった客に裁きを下し、町を焼く。…これは、かなり現実離れした話に思える。

 

 この話では、“神の招きに応じない人”をたとえている。神は主イエスを遣わし、神の国という喜びの宴を準備万端整えた。しかし、ユダヤの人々は神の招きに応じないで自分たちの生活を続け、ついに主イエスを殺害してしまう。神の招きを軽んじる者は、神から厳しい裁きを受けることになる。

 

 私たちは、神の招きに応じているだろうか。神は私たちに必要なものを備え、みことばによって魂を養ってくださる。私たちはこのような恵みを受け取り、感謝しているだろうか。みことばに耳を傾けているだろうか。それとも自分の生活を優先し、神を後回しにしていないだろうか。あのたとえ話の中で、畑に出る客としもべを殺す客に境目はない。ということは、もし日常的に神よりも自分の生活を優先する人は、主イエスを十字架に追いやる自分であることを覚えなければならない。

 

 敗戦の日を迎える。戦争時、私たちの教会は過ちを犯した。天皇陛下を礼拝することを“日本国民の儀礼”として受け入れ、偶像礼拝をしてしまった。日本の勝利を求めてしまったことで、韓国のキリスト者を迫害し、信仰をすてるように強要し、殉教へとおいやってしまった。その時代の空気では当たり前だと思ったことであったが、それによって偶像礼拝や迫害という過ちを犯した。「横浜宣言」はこの過ちを自分たちの罪と認め、同じ過ちを繰り返さないように、向きを変えて歩むことの決意であった。

 

 今でもウクライナとロシア、イスラエルを巡る争いが続く。すでに戦争に入っている国では、正義が踏みにじられ、戦争犯罪が起きている。礼拝で祈り続ける中で、「主の祈り」があの場所で実現することを祈るようになった。争いと分断がある所で、御名があがめられるように、御国が来るように、と祈る者でありたい。