マタイの福音書 22章23〜33節
「復活のいのちを生きる」
サドカイ人たちが、主イエスにこんな質問をした。ある女性が地上で結婚を繰り返した場合、もし復活があるとすれば、復活の時、彼女は誰の妻になるのか、と。サドカイ人たちは復活を信じないので、復活が理論的に成り立たないと主張したのである。
主イエスは、サドカイ人たちが神殿をつかさどる宗教家でありながら、聖書も神の力も知らないことを嘆いてこう言われた。「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」(30)“めとる・とつぐ”とは、地上の日々の総称だろう。「天の御使いたちのよう」とは、今の姿からすっかり変えられることである。この言葉は“復活の時には、自分たちもこの世界も、今とは全く違う姿に変貌する”という意味になる。復活とは、今の私で・今の世界を繰り返すことではない。神の力によって新しくされた私で・新しくされた世界を生きるのである。
聖書のみことばは、私たちの予想や想像を超えて実現する。この視点を失うと、神というお方を矮小化してしまう。神がなさることは、私たちが思うよりも高く、超越している。その高さを待ち望み、その高さに期待する者でありたい。
主イエスは出エジプト記3:6を引用して言われた。「『私は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(32)聖書は「アブラハムの…神であった」ではなく「である」と語る。神は今もアブラハムの神であり、アブラハムは葬られた後も、神にあって生きているのである。
しかも「アブラハムの神」とは、神がアブラハムを何度も立ち上がらせ、何度も救い出し、道を切り開いてくださったという意味である。「アブラハムの神である」お方は、あなたの神となってくださり、あなたを救い、あなたの道を開いてくださる。そして、死においても、あなたを立ち上がらせる。これが復活である。
復活は、死の後から始まるものではなく、この世にいる時から始まる神の力である。神が大いなることをなしてくださると信じ、復活を自分のいのちとして歩む者でありたい。