マタイの福音書 23章1〜12節

「その低さにおいて」

 

 

 主イエスは、パリサイ人・律法学者について “彼らは従うべき言葉を語っているが、彼らの行動を真似てはいけない”と痛烈な皮肉を語る。というのは、彼らは言葉では立派なことを語るが、その行動や生き方がまったく伴っていないからである(3)。

 

 もちろん、パリサイ人たちが全員、偽善的であったわけではない。中には真剣に神に従う者たちがいた。後にパウロと名乗るサウロや、夜に主イエスを尋ねたニコデモは、パリサイ人であった。

 

 主イエスは、2つの点を問題にされた。1つは、たくさんの律法を人々に課したことである。これにより、人々にとってみことばは重荷となり、神に従うことが苦しくなっていた。教会の説教や奉仕などが重荷になっていないか、互いに点検し健全な姿に近づく者でありたい。健全な姿とは、「私のようになってください」と言えるようになることである(使徒26:29)。それは“主イエスと出会い、主イエスに救われた私のようになる”という意味である。

 

 もう1つの問題点は、人からほめられたい・評価されたいという動機で神に従うことである。教札を広くして、律法に忠実だと思われたい。衣のふさを長くして、きよらかな人と見られたい。上座に座ることを誇りとし、「先生」と呼ばれて名誉欲を満たす。これでは、神に従うふりをして自分を満足させるだけである。

 

 主イエスは、人に仕える者となるように(11)、自分を低くするように(12)と命じられる。これは人から評価される願望を捨てるということである。主イエスは、神の御子の栄光を捨てて人となり、十字架まで降ってくださった。それ故、主イエスは人から評価されることにおいてではなく、自分が低くされる時、その低さにおいて、私たちと出会ってくださる。

 

 私たちは人生において、様々な低さを経験する。病や痛み、悲しみや孤独という低さ。理解されないという低さ。仲違いや裏切り、理不尽という低さ。希望がないという低さ。成績が悪いという低さなど。主イエスは私たちの低さにおいて、私たちに出会ってくださる。その低さにおいて、主イエスを求めよう。主イエスをさがそう。そして、主イエスの恵みで引き上げていただこう。