マタイの福音書 23章25〜39節
「いのちの使い方」
私たちは、神さまから頂いているいのちをどのように使うことができるだろうか。例えば、私が神さまからいただいていることを神さまに感謝する。自分が楽しいこと、好きな時間、私が出会った人たちなど、その一つひとつを神さまに感謝する。また、教会で神さまを礼拝して、神さまに感謝をささげる。私たちが神さまに感謝することを、神さまは喜んでくださる。
主イエスはパリサイ人・律法学者たちのことを思って、「わざわいだ」と悲しみ嘆かれた。その理由は、パリサイ人たちが人の目にはきちんとしているように見えても、神さまから見ると欲望や見栄や偽善で満ちていたからである。彼らはまるで、見た目は美しいけれども中身は汚いもので満ちている杯のようであった。
主イエスが問題にしているのは、神さまに対する態度である。私たちは人に対しては気を使うのに、神さまに対しては無神経で無頓着なのではないか。それはつまり、神さまに向き合っていないということではないか。神さまは私たちに向き合っておられる。しかし、私たちが神さまに向き合っていないのである。
主イエスは「杯の内側をきよめなさい」と言われる。私たちは、自分で自分の心をきれいにすることはできない。しかし主イエスを信じるなら、主イエスが私たちの心を取り扱ってくださる。自分の腹黒さを受け止めつつ、主イエスが語ってくださる言葉を私のものとして受け取ることを通して、私たちの心は神さまによって整えられていく。これを“心をきよめる”と言う。
「ああエルサレム、エルサレム」と主イエスは嘆く。エルサレムは神の都と呼ばれたが、これまでの歴史において、その神の都で大勢の預言者が迫害され、殺された。そして今、神の御子イエス・キリストが殺されようとしている。しかし神さまは、そのようなエルサレムを怒って滅ぼすことはなさらなかった。むしろ「めんどりがひなを翼の下に集めるように」、人間をご自分のもとに招き続けた。なぜなら、神さまのもとに救いと慰めがあるからである。私たちは自分の汚さを認め、神さまの招きに応じよう。神さまに向き合い、主イエスを心に迎え入れよう。