マタイの福音書 25章1〜13節

「その日、その時に備えて」

  

 主イエスが創作した例え話である。結婚式の祝宴で花婿を出迎える10人の娘たちがいた。5人は花婿の遅延に備えて予備の油を用意していたが、別の5人は予備の油を用意しなかった。その夜、花婿は遅れて到着した。油を用意していた娘たちは火を整えて花婿を出迎え、祝宴に加わった。しかし別の娘たちは、油が足りなくなって出迎えができず、祝宴から締め出されてしまった。

 

 この花婿とは主イエスのことであり、娘たちは私たちのことである。主イエスが再びこの世に来られることを再臨と言う。それがいつなのか、私たちにはわからない。それ故、私たちは主イエスがいつ来ても良いように、備えていなければならない。「目を覚ましていなさい」と言われる通りである(13)。

 

 改めて問われる。私たちは主イエスの到来を望んでいるのか。パウロは「私たちの国籍は天に」あると語った直後に、「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望」むと語る(ピリピ3:20)。天の御国に入る望みと、主イエスを待ち望むことは一体である。主イエスの到来を待ち望みながら、天の御国に入る望みを確かなものにしていきたい。

 

 再臨は完成の時である。今の私たちは罪の影響下にあり、弱さを抱えている。例えば、なかなか人を赦せない。憎しみを手放すことができない。しかし主イエスの中には、“赦すことができる私”がすでに備えられている。再臨の時、今の私は“赦すことができる私”に追いつき、作り変えていただくことができる。

 

 また再臨は、救いの時でもある。再臨までに主イエスの救いの御業は完成する。たとえ今、主イエスを信じていない人も、その時までには信じるように導かれる。主イエスの最善を信じ・すべてをゆだねて、“主よ、来てください”と祈り求めよう。

 

 私たちは一人でいると、どうしても信仰が揺らいでしまう。だからこそ、いっしょに油を備えていた娘たちになれるように、互いに助け合い・祈り合っていきたい。あの話で花婿が遅れた時、油を用意した娘は居眠りしていたが花婿を出迎えることができた。主のあわれみは大きい。安心して、主イエスを待ち望もう。