マタイの福音書 25章31〜46節

「羊をやぎからより分けるように」

  

 

 主イエスは最後の審判を、「羊飼いが羊とやぎをより分ける」ことにたとえた。一つの群れ(人類)がきれいに2つに分けられるという意味である。最後の審判において、ある人たちは永遠のいのちに入り、ある人たちは永遠の刑罰に入る。中間はない。

 

 何が人を分けることになったのか。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」と聖書にあるように(ローマ10:13)、主イエスを信じる者は永遠のいのちに入る。ところが、主イエスはここで「小さい者たちの一人」のお世話をしたかどうかで人を分けている。一見、人助けをする者が永遠のいのちに入るように見えるが、そうではない。永遠のいのちに迎えられた者たちは、主イエスに“私たちはいつ、あなたのお世話をしたでしょうか”と驚いている。彼らには人助けをした自覚がないのである。

 

 自覚がない。これがこの箇所を読み解く鍵である。主イエスは人が誇りとするような功績や成果によって、永遠のいのちに入れたのではない。むしろ、その人の生活に溶け込んで見えなくなっている・無自覚で記憶に残らないような人助けを見ておられる。

 

 このような人助けは、何から生まれるのか。様々な人生経験やこれまでの労苦も関係しているが、その背後には福音が深く関係している。福音が生活に溶け込み・消化吸収されると、人に対するやわらかさが生まれる。そのやわらかさは、たとえば“自分も同じ状況だったら、同じことをしていたかもしれない”と寄り添う姿勢になり、“自分も心の中ではあの人と大差ない人間で、あの人のことを悪く言う資格はない”という視点となる。

 

 そのようなやわらかさが生まれると、自分を助けるが如く、人を助ける。上から目線で人を哀れむのでなく、善行で神に媚びを売るのでもなく、永遠の滅びに対する恐怖心からでもない。自分自身を愛するように、お世話をするのである。

 

 生活に溶け込むように主イエスを信じているか、と問われる。私の中に福音が消化吸収されることを追い求めつつ、自分にできるお世話をする者でありたい。最後の審判において、主イエスは私の名を呼んで永遠のいのちに迎えてくださるからである。