マタイの福音書2章13〜23節
「苦しみの中、共におられる主」
東の国の博士たちが帰った時、神はヨセフに御使いを遣わし、幼子の主イエスを連れてエジプトに逃げるよう命じた。ヘロデが主イエスの命を狙っていたからである。ヨセフは夜のうちに荷物をまとめ、エジプトへと旅立った。
これにより、預言者ホセアの「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」という預言が成就した(15)。その昔、神はモーセを通して、出エジプトという救いの御業を行われた。それと同じように、神は主イエスを通して大いなる救いを世に現される。
さてヘロデは、博士たちが報告に来ないで帰国したことを知り、怒り狂った。それでベツレヘムとその周辺に住む2歳以下の男の子を虐殺した。ヘロデの残虐さによって、恐るべき事件が起きた。
これにより、エレミヤが語った「ラマで声がする。泣き、そして叫ぶ声」という預言が成就した(18)。「ラマ」はエルサレムの北にある村である。バビロン捕囚が行われた時、エルサレムの住民はラマに集められ、そこからバビロンへと引いて行かれた。エレミヤはその場面に立ち会っており、捕囚の民の嘆きを“子を失った母親”にたとえている。言いようもない、深い嘆きである。
しかしエレミヤ書では、この嘆きの言葉の直後に救いの約束が語られる(エレミヤ31:16,17)。神は「あなたの子らは…帰って来る」と約束される。神は私たちの嘆きに報いを与えてくださり、私たちの将来に希望を与えてくださる。このような神の慰めは、主イエスによって実現している。
ヘロデが死ぬと、主の使いが再びヨセフに現れた。ヨセフはイスラエルに帰り、ナザレに住んだ。これによって“救い主はナザレ人と呼ばれる”という預言が成就した(23)。ナザレ人とは当時の悪口であり、これは救い主が人からさげすまれたことを意味する。
主イエスは、生涯において人からさげすまれた。幼子の時にはヘロデに命を狙われ、エジプトに下った。十字架の時にも、人々にあざけられながら殺された。しかし、エジプトに行く時も変える時も、神の御手が主イエスと共にあった。神は試みの中でも、嘆きの中でも、その御手を伸ばし、私たちと共にいてくださる。