マタイの福音書5章1〜4節
「心の貧しい者」
山上の説教は、「幸いだ」という言葉から始まる。幸せについて、多くの宗教家や哲学者が自分の意見を述べているが、主イエスはここで“神の国の到来”を宣言する。「幸いだ」とは、神からの幸せが届いている知らせであり、神の祝福という実態が伴っている。
まず、「心の貧しい者」である。心が貧しいとは、一般的には“心が狭いこと”を言うが、ここでは“からっぽ”という意味であり、自分の中に売り込むことが何もない状態である。
この世では、自分を売り込むことが求められる。就職活動ではガクチカ(学生時代に力を入れたこと)が求められ、営業では商品のPRが求められる。写真やコメントで自社を売り込み、いかに人の関心を惹き付けられるかを競わなければならない。
こういう発想で神さまから祝福をいただくことを考えると、どうしても自分を売り込むことを求めてしまう。自分が善良な人間であること、愛情深く人に仕えて来たことなど、自分の何かで神の祝福を引き出そうとする。しかし主イエスは、私たちが「心の貧しい者」であり、私たちには神の祝福をいただく根拠が何もないことを思い起こさせる。私たちは確かに、神さまの祝福を引き出す根拠についてからっぽであるばかりか、罪深い者である。
しかし主イエスは、そういう“からっぽ”な私たちを「幸い」と言われる。なぜなら、私たちに神の国が届けられているからである。私たちは神に恵みをいただく根拠のないからっぽな者であるが、神は不思議と私たちを助け、恵みを与え、神を喜ぶことへと導いていてくださる。この世では自分を売り込むことが必要とされるが、神の前ではからっぽのままで良い。神の恵みに感謝して生きるところに、「心の貧しい者」の「幸い」がある。
次に、「悲しむ者」である。誰にとっても悲しみは幸いではない。私たちは悲しみをどうすることもできず、悲しみに振り回されてしまう。しかし主イエスは、悲しむ者の隣にいてくださり、みことばを通して私たちに語りかけ、その悲しみにおいて私たちに出会おうとしてくださる。たとえ悲しみがあっても、主イエスが慰めてくださる故に、「悲しむ者は幸い」と言えるのである。