マタイ5章27〜32節
「心と身体を守るために」
十戒に「姦淫してはならない」という言葉がある。パリサイ人・律法学者は、これを“一線を越えなければ律法を守っている”と教えた。しかしこの読み方は、神の御心を損なっていた。神の御心は、人が他者の心と身体を大切にすることであった。主イエスは神の御心に基づいて、この言葉を豊かに解き明かされた。
まず主イエスは、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯した」と言われた(28)。神はその人の行いだけではなく、心の中までご覧になる。それ故、一線を越えていなくても、情欲を抱くことが神の御前に罪とされる。
情欲を抱くとは、相手を自分の意のままに動かして支配しようとすることである。必ずしも性に結びつかなくても、恋愛や結婚に関心がなくても、歳を重ねても、情欲を抱くことは起こり得る。
神が「姦淫してはならない」という言葉において願っておられることは、安心して“No”が言える関係である。たとえば、相手に “No”という意思表示をすると機嫌が悪くなったり、嫌味を言われたり、暴力を振るわれたりするならば、そこには安全と安心が失われていると言える。もし恐れや暴力によって、“No”と言う自由が失われているならば、そこには情欲を抱く罪が入り込んでいると言えるのではないか。私たちは、お互いの心と身体を守るために、情欲を抱く罪から離れ、安心して”No”と言える関係と環境を作り上げていきたい。支配のあるところに自由はない。
主イエスは、“目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまえ”、“手がつまずかせるなら、切って捨ててしまえ”と、過激なたとえを言われた(29,30)。これは、“情欲を抱く罪については、強い決意をもって自分自身で対処しなければならない”という意味である。私たちは、自分の目が何を見ているか、自分の手が何を掴もうとしているか、よく見張らなければならない。
人との関係を作る上でも、何を見るか(目)とどんな対応をするか(手)が重要である。みことばの光に導かれつつ、みことばによって御心を選び取り・御心を行う力をいただいて、自分の人間関係を神が喜ばれるように築いていきたい。