マタイの福音書5章33〜37節

「真実な言葉を求めて」

 

 旧約聖書の時代から、神の御名で誓うことは大切にされていた。しかし律法学者たちは律法に違反しないようにと、神の御名の代わりに「天」や「地」に誓うことを教えていた。

 

 しかし主イエスはこれらの考えを否定され、「天」や「地」を指して誓うことをやめるように命じられた。その理由は、「天」にも「地」にも神はおられるのであり、「天」や「地」で誓うことは神の御名で誓うことと同じだからである。むしろ主イエスは、「天」や「地」で誓うことをしなくても、お互いを信頼し合える関係または社会を作って欲しいと願われた。そのような願いを込めて「決して誓ってはいけません」と言われたのである。

 

 お互いに信頼し合える関係は、真実な言葉によって作られる。主イエスは「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい」と言われた(37)。これは、ブサイクだなと思った人に「ブサイクですね」と言い、きれいだなと思った人に「きれいですね」と言うことではない。むしろ主イエスは、真実な言葉を使うように命じておられる。

 

 真実な言葉とは、どのような言葉であろうか。本当のことを伝えるだけでは、真実とは言えない。たとえば、愚かなことをした人に対して「あなたは愚かなことをした」と言うだけでは不十分である。真実な言葉とは、「あなたは愚かなことをしたけれども、ここから悔い改めて、神さまを見上げていっしょに進んでいこう」と言うことである。言いにくいことでもしっかりと伝えつつ、その人と共に・正しい道へと歩み始める言葉こそ、真実と言える。

 

 私たちの人間関係は、言葉によって形成されている。冷たい言葉を使うと、その関係は冷たくなる。存在を肯定する言葉を使うと、いのちが通う関係になる。ただし、悪い言葉はあっという間に関係を壊すが、存在を肯定する言葉はなかなか相手に届かない。そのため関係が良くなるのには時間がかかる。

 

 主のみことばは真実である。主はみことばによって私たちの存在を肯定し、私たちにいのちを吹き込んでくださった。私たちが救われたのは、みことばの真実さに基づいている。