マタイの福音書5章5〜6節
「柔和な者、義に飢え渇く者」
主イエスは「柔和な者は幸い」と言われた。「柔和」は一般的には“優しい・穏やか”という意味になるが、ここではそうではない。ここでの「柔和」は、“神が自分に良くしてくださることに感謝して、その恵みをまわりの人々に適応すること”である。
たとえば、まわりの人に対して、“これだけしてあげたのだから、わかって欲しい”と思うことがある。しかし、神が大きな心で自分を受け入れ、赦していてくださることを知る。その恵みを受け止め、“わかって欲しい”という気持ちを思い直し、大きな心で相手に接してみようとする。これが「柔和」である。
主イエスは、「柔和な者」は「地を受け継ぐ」と約束された。ここでの「地」とは、“わかって欲しいと思う相手がいる場”でありその関係のことである。柔和な心で相手に接していく時、神の祝福が注がれ、その関係は潤いのあるものとなり、自分が心安らかに居られる場とされる。
主イエスは、あなたが「柔和」であろうとするところに、共におられる。主イエスは「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と言われる(マタイ11:28)。「柔和」が必要とされる関係は、私たちにとって重荷である。しかし、主イエスが自分の重荷を共に背負ってくださることを知り、主イエスから重荷の背負い方を学ぶことで、安らぎを得るのである。
「義に飢え渇く」の「義」とは、“神さまが正しいとされること”である。みことばを求めることも、「義に飢え渇く」ことである。誰かとの関係が改善するように祈ることも、「義に飢え渇く」ことである。家族の救いのために祈ることも「義に飢え渇く」ことである。ウクライナとロシアが平和に導かれるように祈ることも「義に飢え渇く」ことである。
主イエスは、「義に飢え渇く者」は「満ち足りる」と約束される。「満ち足りる」とは、心に泉を持つことである。主イエスを信じることで、主イエスご自身が泉となり、私たちと共にいてくださる。それは、みことばの泉であり、慰めの泉であり、愛と喜びの泉である。からっぽの自分のまま、主イエスを求めて進もう。