マタイの福音書 6章19〜24節
「天の父の眼差しの中を」
主イエスは「自分の宝を地上にたくわえる」のではなく、「天にたくわえなさい」と言われた。“自分の宝をたくわえる”とは、自分の心の使い方のことである。主イエスは、自分の宝を地上のことばかりに使うのではなく、心を天に向け、“お優しい天のお父さま”を思い起こすように言われた。
日常の生活において、私たちは地上のことに心を使っている。そんな私たちを、主イエスは心配しておられる。心を地上のことばかりに使うならば、「宝」が虫やさびや盗人によって失われてしまう、と。これは、心と身体を消耗して使い捨てるようなことになってしまう、ということである。そういう消費と消耗の世界に生きる時、私たちは“お優しい天のお父さま”を見失ってしまう。
主イエスは、私たちが心を天に向け、“お優しい天のお父さま” を頼って祈り、神の恵みを受け取って生きることを願っておられる。神は父なる神として私たちと共にいてくださる。神と共に生きることによって、私たちは消費と消耗から守られる。
また主イエスは、「目が健全なら、あなたの全身が明るい」が「目が悪ければ、あなたの全身が暗い」と言われた。「目が健全」とは、人を信じることであり、人を赦し・受け入れ・期待することである。そういう見方をするならば、その人の心は明るくなり、毎日も明るく晴れやかになる。しかし、反対に「目が悪い」とは、人を疑い・蔑み・批判し・差別することである。そういう見方をすると、自分の心は暗くなり、毎日も暗く・憂鬱なものになる。
私たちは罪の影響によって、悪い見方をしてしまう。しかし“お優しい天のお父さま”は私たちを礼拝に招き、みことばを与えて、私たちを赦し・受け入れてくださる。私たちはみことばによって、心を天に向けることができ、父なる神のように健全な見方で見ることを学ぶ。みことばが、私たちの心を明るく照らし、また私たちの生活を健全にする。
私たちは「神にも仕え、また富にも仕える」ことはできない。だからこそ、私たちは礼拝に励み、みことばの光によって神に仕える者として歩みたい。