マタイの福音書 7章15〜23節

「へりくだって主イエスに頼る」

 

 

 主イエスは「にせ預言者たちに気をつけなさい」と言われた(15)。今日、インターネットには聖書や教会の様々な情報が入り交じっている。安全で正しい情報を選び取らなければならない。

 

 私たちに求められているのは、自分自身が目覚めていることである。自分の信仰を点検し、立つべきところに立とうとする時、私たちは神にへりくだり、神に頼るように導かれる。神は、私たちの信仰が生き生きとなることを願っておられる。

 

 また主イエスは、「実によって彼ら(にせ預言者たち)を見分けなさい」と言われた。この場合の「実」は、外見的なものではない。にせ預言者は「羊のなりをして」いるのであり、一見、信頼できる人のように見えるが、その中身は「貪欲な狼」である。“実で見分ける”とは、その人の中身で見分けることである。

 

 ここで話は、最後の審判の場面に移る。最後の審判において、にせ預言者たちは“自分たちがみことばを語り、悪霊を追い出し、奇跡をした”と釈明するが、主イエスは「わたしから離れて行け」と厳しい裁きを宣告する。彼らは主イエスのために働いたように見えるが、その中身は違っていた。彼らは主イエスにへりくだり、主イエスに頼って、神の御心を行っていなかったのである。

 

 その一つの証拠は、彼らが自分のやったことを披露して、“当然、自分は救われるはず”と思い込んでいることである。厳粛な神の裁きにおいて、自分の罪が明らかにされる時、私たちは自分の歩みに恥じ入るのではないか。そういう場で、“私は〇〇をしたから救われるはずだ”と語る、その自信はどこから来るのだろうか。

 

 主イエスは「心の貧しい者は幸い」と言われた(5:3)。心が貧しいとは、救いをいただくために自分から差し出すものが何もないことである。にせ預言者たちは、“あれも、これも”と差し出している。心の貧しさを知らなかったということである。

 

 神は、からっぽな私たちに救いを得させてくださる。私たちは、からっぽな自分のままで主イエスにへりくだり、主イエスを頼る者でありたい。そのような歩みの中で、主イエスは私たちに良い実を結ばせてくださる。主イエスにつながり、良い実を結ぼう。