マタイの福音書 7章24〜29節

「権威ある者のように」

 

 山上の説教の結びである。主イエスは、自分の家を建てた二人の人にたとえて、みことばに従って生きることを教えている。

 

 ある人は「岩の上」に、別の人は「砂の上」に家を建てた(24,26)。ルカ6章によると、岩の上とは「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据え」た家である(6:48)。大雨と大風があった時、岩の上の家は無事だったが、砂の上の家は倒れてしまった。

 

 このたとえ話において、家を建てるとは人生を生きることである。大雨と大風は神がこの世の終わりになさる“最後の審判”である。人は死を迎えた後に神の御前に立ち、判決を受けなければならない。その時、岩の上に家を建てた人はいのちに入れられ、砂の上に家を建てた人は滅びに入れられる。主イエスは私たちに、岩の上に家を建てる道を選んで欲しいと願っておられる。

 

 岩の上に家を建てるとは、みことばを「聞いてそれを行う者」のことである(24)。みことばを行うことは、人間の意志や努力だけでできることではない。まして、“みことばを行わなければ滅びに入れられる”という恐怖心ですることでもない。みことばを行うことは、神の愛を知り・これを受け入れることから始まる。

 

 「岩の上」の「岩」を、主イエス・キリストとしてイメージしてみたい。岩の上に建てた家とは、主イエスを信じて生きる人のことである。すなわち、主イエスの十字架において証しされた神の愛を受け取り、聖霊の助けをいただきながら、みことばの約束を信じ、みことばに従って生きることである。このように、みことばに従って主イエスと共に歩んでいくならば、その人は、岩の上の家のように、最後の審判において倒れない家とされる。

 

 主イエスは、岩の上に家を建てた人を「賢い人」と言われた(24)。「賢い」とは、見るべきものを見るという意味である。死の先にある究極の終わりである“最後の審判”までを見通し、みことばに従って生きる人は「賢い人」である。みことばを行うことには、“ここまでやれば救われる”という基準があるわけではない。私たちは、神の愛に励まされつつ、求道者のようにみことばに従うことの深みを求めていく者でありたい。