マタイの福音書 9章18〜26節
「来てくださった救い主」
主イエスのもとに会堂管理者がやってきた。彼の娘は闘病の末、天に召されたのである。しかし彼は、主イエスが娘を生き返らせることができると信じた。その途中、ある女性が群衆に紛れて主イエスの着物のふさにさわった。彼女は長血という女性特有の病気に悩まされていたが、主イエスによって直ると信じた。
病気と死は、人を選ばない。病気と死をめぐる状況には、痛みや苦しみ、壊れてしまった人間関係、経済や治療をめぐるやむを得ない事情など、それぞれのストーリーがある。会堂管理者は社会的な地位があり、安定した生活をしていた。彼の娘は名の知れた医者から治療を受け、最良の薬と食べ物を得ていただろう。それに対して、長血の女性は医者に騙されて全財産を失っただけでなく、長血は“けがれ”とされていたため孤独であった。
しかし主イエスは、それぞれの状況・事情の中に来てくださるお方である。そして、その人の重荷を引き受け、共に背負ってくださる。ここでは、主イエスが来てくださった恵みを覚えたい。
長血の女性は主イエスのうしろから近づき、そっと着物のふさに触ると、彼女は癒された。主イエスは彼女に「しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直した」と言われた。彼女を癒したのは、彼女の信仰ではなく主イエスである。しかし主イエスは、彼女が主イエスに近づいたことを「あなたの信仰」と言ってくださった。実に、信仰とは主イエスを頼って、主イエスに近づくことである。ただし、主イエスに近づくことも、主イエスが私たちのところまで来てくださった恵みがあってのことである。
主イエスは会堂管理者の家に着いた。主イエスは、娘が息を引き取っていることを承知の上で、「その子は死んだのではない」と言われた。これは娘が生き返る予告であった。主イエスは娘の手を取って、彼女が再び生きるようにしてくださった。主イエスは、死から復活されたお方である。そのお方が私たちのことを「死んだのではない」=まだやり直せる、と語ってくださる。主イエスのもとには、このような可能性と将来がある。私たちのために来てくださった救い主、主イエスを信じて頼ろう。