マタイの福音書23章29〜39節

「わざわいか、幸いか」

 

 パリサイ人と律法学者は、当時のユダヤ社会において“神を信じるための手引をする人”として尊敬されていた。そんなパリサイ人・律法学者に対して、主イエスは「わざわいだ」と嘆かれた。

 その理由が2つある。まず、彼ら自身が神を知らないことである。律法を遵守する方法や歴史的研究には長けていたが、神そのものを人格的に知らなかった。主イエスは彼らのことを「目の見えない手引きども」と強烈な皮肉を込めて呼んでいる(16)

 次に、彼らの偽善的態度である。彼らは人前では聖く立派な立ち振舞いをしていたが、主イエスはその心が「強奪と放縦でいっぱい」なのを見抜かれた(25)。それでパリサイ人・律法学者たちを白く塗った墓にたとえて、「外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱい」と批判し(28)、彼らの偽善を暴かれた。

 私たちは、パリサイ人・律法学者を笑えるだろうか。現代において、“神を信じるための手引をする”役割は教会が担っている。しかし、“教会の敷居が高い”とか“入りにくい”とか“説教が難しくてわからない”という批判があるならば、私たちが神を求める人々をつまずかせているかもしれない。

 主イエスは「めんどりがひなを翼の下に集めるように…集めようとした」と語られた(37)。「めんどりがひなを翼の下に集める」とは、神の愛と平安に人々を招き入れ、神の守りと助けと救いの中に匿うことである。具体的には、神は預言者をお遣わしになり、みことばを通して、人々を「翼の下に集め」ようとされた。しかし人々は預言者を受け入れず・かえって殺し、神の招きを拒んだ。

 人は究極の状況に追い込まれれば、神を求めることができるだろうか。もし“いざとなれば、神に助けを求め、神を信じるだろう”と思いこんでいるならば、その見積もりは甘いと言わなければならない。神は今もみことばを通して、私たちを「翼の下に集め」ようとしておられる。神の声に応答することを先延ばしせず、今、応える者でありたい。

 

 

「わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。」(37