マルコの福音書8章27〜38節
「このような時代にあって」
ピリポ・カイザリヤの町を背に、主イエスは弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と問いかけた(29)。ペテロは「あなたはキリストです」と応えた。これは、ローマ皇帝を主と崇拝する世の中の動きに逆らって、イエス・キリストを主とする信仰の告白だった。
信仰を告白する者は、その生き方が問われる。そこで主イエスは、イエス・キリストを救い主と告白する者の生き方を語られた。それは「自分を捨て、自分の十字架を負」う道である。私たちは自分を人生の主人としたがるが、そんな自分を捨て、主イエスを主人とし、自分はその弟子となって主イエスに従っていく。「自分の十字架」という背負うべき重荷があるが、それは罪の罰ではない。「自分の十字架」は主イエスの十字架を仰ぎ見るもの、弟子の道を学ぶものである。
主イエスは、ご自分の十字架の予告をされた。それを聞いたペテロは激しく動揺し、主イエスをわきにお連れしていさめた。ペテロは救い主は世界の王になると誤解していたのである。しかし主イエスは、祭司長たちに殺されるという十字架の道を進まなければならなかった。主イエスはペテロの誤解に気付いておられたが、十字架の道を妨げられまいとして「下がれ、サタン!」と語る。それほどまでに、十字架で死ぬことは主イエスにとって“どうしてもしなければならないこと”であった。そしてその背後には、ペテロをはじめ、私たちに対する愛があった。“あなたが滅んでほしくない、永遠のいのちを得て欲しい”と主イエスは願っておられる。
このような時代にあって、私たちは何を頼って生きるのか。私たちが頼るべきは、私のために十字架で死なれたお方である。
「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(29)
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。」(34)