マルコ6章45〜52節

「向かい風の中で聴く主イエスの声」

 

 主イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダに行くように命じた。ところが思いがけず、強い向かい風との戦いを強いられることになった。普段は穏やかな湖が、大波となって襲いかかって来た。

 私たちの生活にも様々な向かい風がある。身体や心の不調で力が出ない時や、思いがけない出来事で試みを受けることがある。今回のコロナ禍は全世界が直面している向かい風と言える。

 主イエスは夜中の3時頃、湖の上を歩いて弟子たちの方に行かれた。不思議な出来事である。主イエスは、弟子たちのそばを通り過ぎるおつもりであったと記されている(48)

 なぜ主イエスは通り過ぎようとされたのか。これについては様々な見解があるが、“主イエスは弟子たちの前に行き、風上に立とうとされたのではないか”という解釈に教えられ慰めを受けた。

 この世における向かい風の中でも、私たちの先に主イエスが進んでいてくださる。それだけではない。向かい風の中から、主イエスは「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」(50)と、みことばを語ってくださる。

 「しっかりしなさい」というのは、もっと気合を入れなさい、という意味ではない。心配しなくていい、安心しなさい、という意味である。向かい風の中でも、主イエスがいてくださる。「わたしだ」と名乗っていてくださる。ホッとして、もう少しがんばれる気がする。「恐れなくていい」と語られる。心が開かれて “助けて下さい”、“守って下さい”と素直に祈れる。

 弟子たちが向かい風と戦っている時、主イエスは山で祈っておられた。弟子たちの信仰のために祈ってくださった。同じように主イエスは、私たちの信仰のためにも祈っていてくださる。主イエスの祈りがなければ、私たちは信仰を保つことなどできない。

 礼拝では「祝福と派遣の祈り」がある。会堂から家路につく時にも、主イエスが私たちの先を進まれる。向かい風が吹いているあの場所へ行く時にも、私たちはみことばを握って、主イエスの祈りに支えられて、主イエスの後を進むことができる。