ヨハネの福音書15章1〜10節
「主イエスと私たちの結びつき」
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(5) 主イエスは、“私たちと主イエスが一つに結び合わされていること”を示している。
父なる神は主イエスを愛され、主イエスも父なる神を愛された(9,10)。これは、三位一体の神における愛の交わりである。私たちは主イエスと結び合わされることにより、この三位一体の交わりに加えられている。たとえば祈りにおいて、父なる神に呼びかけ、主イエスの御名で祈る。聖霊は祈る者を助ける。私たちが「天の父なる神よ」と祈る時、三位一体の神との交わりがある。
「わたしはまことのぶどうの木」と主イエスは言われた(1)。旧約では、イスラエルの民が“神に逆らう酸っぱいぶどう”とされる(イザヤ5:2)。しかし主イエスが「まことのぶどうの木」であるということは、主イエスによって神を愛する“神の民”が形成され、歴史を貫く神の救いの御業が完成することを意味する。
父なる神は、ぶどうの木に手を入れる(2)。神は私たちが実を結ぶために、私たちを御心にかなう姿に造り変えられる。主イエスにとどまる者には、みことばがとどまり(7)、みことばの力によって実を結ぶ者とされる。
実を結ばない枝は取り除かれ(2)、集められ、燃やされる(6)。もし自分を基準にして、“自分は実を結んでいるか”と問えば、不安に襲われる。主の約束を頼り、主イエスとの結び目を見つめなければならない。はじめに主が、私に手を差し出してくださった(3)。私は「わたしにとどまりなさい」という招きに応えて、主の手を掴む。すると主は、「わたしもあなたがたの中にとどまる」と言って、別の手で私の手を包んでくださる。私たちは、このような固い絆によって、主イエスと結ばれているのである。
主イエスは、その言葉や姿で“見えない御神”を証しされた。同じように教会も、その存在によって“見えない主イエス”を証しする宣教の使命を持っている。教会につながることで、この私も“主イエスの十字架と復活”を証ししていると信じよう。